2021年3月7日日曜日

紆余曲折の果てに

   センゴク権兵衛の感想。

 201話
 秀吉、そして家康利家の渡海は延期になる。代わりに渡海するのは三成ら奉行衆。 
 しかし、秀吉からの書状は勇ましく、且つ判断を三成達に任せるものであった。現地での混乱は目に見えていた。
 権兵衛は独り言と称し、無用ノ介と話、頭を整理する。
 朝鮮との和談もままなるのに、明攻めを促す。泥沼の戦いになるニオイがするのだ。
 権兵衛は思う、秀吉は自信と不安が繰り返している、それらが才人である、と。
 無用ノ介は賭けに出たと言い、上手く行けば明との直接交渉、駄目なら奉行衆の判断での慎重策、と。
 しかし、権兵衛はそれは無理、現地軍は言う事を聞かない、と答える。理由は自分がそうだから、である。
 とまれ、これで権兵衛の頭は整理された。

 秀吉の来春の渡海、これを延期せしむ事態が発生する。
 七月二十二日の大政所の死去である。急ぎ、名護屋から京に戻ったが、母の死に目には会えなかった。
 秀吉は悲しみに暮れ、自責の念に駆られるのであった。

 朝鮮の状況は悪かった。戦に勝っても、統治は難し。
 兵糧の少なさ、寒さ、兵の少なさ、統治も儘ならない。
 三成、増田、大谷は秀吉にありのまま伝えるか迷うのであった。

 202話
 朝鮮と明が合流し、戦線の膠着は続く。そして八月には小西が明との交渉に臨む事となる。
 そして、五十日間の停戦が決定した。
 そんな中秀吉はずっと畿内に逗留。更に、伏見に隠居所を建てようとしていた。
 その噂は名護屋の権兵衛の耳まで入った。それは無用ノ介の見立て通りであり、港さえ押さえれば渡海する必要はない、そう権兵衛は考える。
 そんな中で身投げ騒動があった。しかも死んだのは皆好色漢ばかりであった。茶々もまた、独自に動いていたのだ。

 十一月、漸く秀吉は名護屋に戻って来た。来春こそ渡海か、皆思っていた。
 さて、権兵衛は完成した湯屋を秀吉に披露した。そして十一月十八日、従五位下越前守に叙された。ちなみにこの頃から秀久から秀康に改名していた。
 天正二十年十二月八日を以て天正から文禄への改元される。
 そして秀吉の心境も変わる。表向きは唐入りに積極的だったのが表向きすら消極的になったのだ。それは唐入り策の成功を容易とみたか、それともかつての将軍の如く現実の直視を拒んだのであろうか。

 現実は過酷である。朝鮮では最前線に明の大軍が迫っていた。
 停戦後、再交渉をするのも不調。準備を整えた明、朝鮮連合軍は文禄二年正月に平壌に攻め寄せたのだ。
 しかし、秀吉は明が侘び入れに来る、と思っていた。いや、そう思いたかったのかもしれなかった。小西も秀吉も疲れ、明側の誤情報に縋ったのかもしれない。

 203話
 このころより秀吉は能に耽溺していった。見るだけでなく自らシテを演じたりもした。
 そんな中、竜子より茶々の加減が悪いと聞かされる。そして、大坂に戻り有馬の湯治をするよう進言する。秀吉はそれを了承する。
 秀吉にはまだ伝えていない、茶々の懐妊の兆しがある事は。
 明の使節を自らの能でもてなそうと秀吉は考えていた。

 しかし、現実は過酷であった。
 朝鮮では不安要素が増えていた。疫病に通信途絶、水軍や反乱軍も発生していた。
 更に、戦線縮小を三成達が考えても清正は応じなかった。その上での小西軍の敗北である。
 豊臣軍の空中分解もありえた。そんな中で迎えたのが碧蹄館の戦いである。小早川隆景と立花宗茂の活躍により激戦の末に勝利。その後は一進一退の戦いとなった。
 そんな報告も秀吉の下には遅れて伝わるのであった。秀吉の楽観は崩れ去った。
 現地でも漢城の死守せども維持は困難になり、放棄を話会うようになる。
 秀吉の渡海する気は失せ、朝鮮南部の確保へ舵を切り始めた。

 しかし、秀吉の思いとは裏腹に歴史は進む。
 豊臣軍の強さを実感した明も和睦を模索し始めたのだ。その上、一部の廷臣は寧波での貿易を許可しようとしていたのだ。
 ここにわずかな道がつながった、秀吉の東アジア貿易権獲得の野望が。
 三月十五日に小西は再び、明と交渉する。その中で決められたのは三点。一つ、朝鮮王子の返還。一つ、豊臣は漢城から釜山まで撤退、明は開城まで撤退。一つ、明から日本への使節派遣。
 だが、正式な使節の派遣は難しと見られ、皇帝の勅許無しの偽の使節であった。
 兎にも角にも、泥沼化しそうな唐入りは講和に向けた新たな転機を迎えようとしていた。

 204話
 文禄二年五月、いよいよ直接交渉が迫っていた。
 秀吉は正澄からの報告を聞き、勅使に対し粗相をする者いないよう今後も監視するよう申し付ける。そして在陣衆に御触を出す。明国に悪口を言う者は処罰する、と。更に花押まで署名させてだ。秀吉はこの交渉に賭けていたのだ。
 だが、辻褄合わせが必要であった。積極的に征明を煽ったのだ、諸将の目を逸らす必要があった。秀吉は不要な将を罰することで目を逸らさせる事にした。その標的にされたのは大友吉統、島津忠辰、波多親の三人である。皆、改易処分となった。
 交渉の準備は進んでいた。鉄甲船の出来の目途が付き、これまた、明の勅使の心を攻める手段が増えた。しかし、同時に偽の勅使、明に侘び入れの意がない、と言う誤算も孕んでいた。
 そんな中、茶々の懐妊正式にねねに伝わる。それは当然、その周りにも。
 男女の別は分からない。それでも、男子なれば政権の行方に影響はある。懐妊を伝え聞いた秀次は動揺しつつ、お祝いしなければならなかった。

 五月中旬、遂に小西、三成と共に勅使が上陸する。彼らは偽とは言え、日明貿易容認派である、この一筋の光明を携えた使者と五月二十三日に接見するのだ。
 その前日の二十二日に秀吉は茶々の懐妊を知る。だが、その返事はそっけなく、秀吉は自分一人が天下の為に働いている、そう思うのであった。
 いよいよ接見の時。秀吉の外交手腕に全てが懸かっていた。


 と、言うわけで四話分です。
 かなり迷走した唐入り。だが、歴史の歯車は秀吉の思い通りに動きそうです。やはりまだ、神に愛されているのか、とも思いますが当然我々はその後も知っています。鶴松の死により半ば暴走したように始まり、躁鬱を繰り返した果てに見えるのは何でしょうか。
 この後は秀頼の誕生もあり、豊臣政権は自壊し始めます。ここが、秀吉最後の輝きになるのでしょうか。次回も楽しみです。